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異性愛者のことも同性愛者のこともわからない

あまりややこしい話題には首をつっこみたくないのですが、たまには良いでしょう。今日は、真面目にセクシャリティの話をしましょう

まず、前提として、僕は男性と女性の違いがよくわかりません。全体的な傾向として、男のほうが体が大きいとか、筋肉がつきやすいとか、そういう差異があるのはわかります。女性のほうが共感力が高いとか……。脳のつくりとして、男性と女性は違う傾向にある、ということはわかります。ただ、それがすべての男女に当てはまるか、というとそういうわけではないですよね。平均的な男性よりも背の高い女性だっているし、平均的な女性より共感力の高い男性もいるわけです。統計的な処理をする際には、男女の差は重要だと思います。しかし、個別具体的なコミュニケーションにおいては、男女の差よりも個人の差のほうが重要だと思います。だから、僕は個人としてつきあうときに、男女の違いを意識することは、ほとんどありません

そういうわけで、異性愛者(ヘテロセクシャル)の男性が女性しか性の対象にできない(あるいは恋愛ができない)のも、同性愛者(ホモセクシャル)の男性が男性しか性の対象にできない(あるいは恋愛ができない)のも、実に不思議なのです。男と女には差がないと考えているので、なぜ、その性別しか愛せないのか、ということがよくわかりません。今日の日記のタイトルにもありますけど、本当に異性愛者と同性愛者のことがわからないのです。

ジェンダーの歴史について軽くふれますが、90年代中程において、同性愛は、脳の器質によって決まる、という考え方が主流だったと思います(結構前に勉強したのでうろ覚えです。嘘だったらごめんなさい)。生まれた時点で同性愛者になりやすい脳というものがあって、だから同性愛になる、生まれつきそういうものなんだから、変えられない属性だから擁護しなければならない、という考え方があったわけです。肌の色と同じく変えられないものだから、マイノリティを擁護する、ということですね。

ところが、同じ頃、人は生まれつき多様な性を取り得るのだ、という主張も力を持ちはじめます。現在ヘテロである人は、たまたまヘテロであるだけで、環境や育ちによっては同性愛を選ぶ可能性もあった。人は環境によって多様な性を取り得る。多様性は重要だ。皆、今後、自分が同性愛者になる可能性もあるのだから、同性愛を擁護しなければならない、という考え方もあるわけです。

この二つはどちらも同性愛を擁護していますが、考え方は根本から違うわけです。いまだに、セクシャリティは先天的なものか、後天的なものか、結論は出ていません。どちらの説が有力なのかも、僕にはわかりません。

僕は、どちらかというと、人は多様な性を取り得るという立場の考えです。セクシャリティというのは、時と場合によって揺らぐような曖昧なものだ、と考えているわけですね。

ヘテロの男性が、女性にしか性的に興奮できない、というのはどうなんでしょう。たとえば、ヘテロの男性が目隠しをされた状態をイメージしてください。そこで、ヘテロの男性が、他の男性に手や口などを使って射精させられる、ということは普通にあり得ると思います。性的な興奮というのは、肉体に与えられた刺激によって生まれるものではないでしょうか。もちろん、女性を想像することで興奮しやすいとか、そういうことはあるかもしれませんが、究極的には刺激さえあれば、相手が男性であれ女性であれ、それこそ動物であったりAIであったりしても、何も問題はないと思うのです

ゲイの男性(ホモセクシャルというと女性も含まれてわかりやすいが、短縮してホモというと問題になる、というのも実に不思議ですが……)も、女性から性的な奉仕をされて射精する、ということは普通に起こりうることだと思います。

でも、そうではなくて、やっぱり無理なんでしょうか? ヘテロの男性は、男性から性的なことをされても、興奮はしない? ゲイの男性は、女性から性的なことをされても、興奮しない? 興奮しやすい、しづらいはあるかもしれませんが、僕は、究極的には性的興奮の度合いは性別では決まらず、刺激で決まる、と思います。

さきほどは性の問題について書きましたが、次は愛について書きましょう。そもそも、人を好きになるということにはいろいろな段階があるわけです。単純に好意を覚えるという程度であれば、性別は無関係だと思います。僕は、愛情の深さも性別で変わるということが、いまいち理解できません。好きになる相手は、性別で決まるものなのでしょうか。単に、その人がどういう人物か、で決まるものだと思いますけど。冒頭に書いたように、僕は個人の性別というものに関心がないので、こういう考えになります。

とにかく、性別などという実に些細な問題に、皆がこだわりすぎだ、と感じます。ただ、この性別というものを自身のアイデンティティとして大事にしている人がいることもわかるので、僕は強くは主張しません。こういう考え方もあるんだな、という程度に受け取ってもらえれば良いかと。べつに異性愛者と同性愛者を批難したいわけではありません(全人類の9割以上を敵に回すことになるし……)。

性別なんて、些細なことなんだよ、と言える社会になると良いですけど、まだまだ時間は掛かるでしょうね。でも、50年くらい経てば、美容整形の技術や、性転換の技術も向上して、好きな性別で生きていけるようになっていると思います。その頃には、そもそも性別というものが意味をなさない社会になっているでしょう。

インターネット上では、すでに僕たちは性別と無関係の存在なのです精神には性別というものが存在しない(と僕は思っている)。インターネットでは、男性として振る舞うことも、女性として振る舞うことも、性別不詳として振る舞うこともできます。ただ、社会あるいは現実世界と接続したときだけ、肉体があるから、性別というものに縛られます。将来的に、人は外にでなくても生きていけるようになるでしょう。そうなったとき、性というものは完全に意味を喪失し、人々は性から解放されるでしょう(宗教か?)。

さて、ここまで書いた僕のセクシャリティは、なんでしょうか? アセクシャルか、バイセクシャルか、そんなところではないかと推理しますけど、定かではありません。ヘテロかもしれないしホモセクシャルかもしれない。そう、曖昧こそが、性の本質なのです自分の性なんて、どうでもいい、実に些細なことだと思います。違いますか?

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