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純文学は、いつまでつづくか?

こんにちは! 河東遊民です。

今日は『純文学は、いつまでつづくか?』というエッセイを書きましょう。

まず純文学の定義が難しいですが、ひとまず『すばる』とか『群像』とかに載ってる作品のことを指します。2002年に大塚英志さんが群像で『不良債権としての文学』という文章を寄稿しています。そこでは、すでに文学というものは採算がとれない事業だ、と言っているわけですね。文学は漫画の黒字を食っているだけの存在なのだと。そのうち漫画も売り上げが厳しくなって、そのときに文学はどうするんだ、みたいな問題提起をしたわけです。

出版社のビジネスからすると、どう考えても無駄な部署です。どれだけ頑張っても大当たりが出ません。雑誌をつくればつくるだけ赤字になります。一応、出版のコストを下げるために電子化するような文芸誌も出ていますけど(メフィストとか)、純文学系の雑誌は、読者の年齢層的に電子化が可能なのかどうか、よくわかりません。

今後、出版社はどんどん赤字の部門を切り捨てざるを得なくなるはずです。それでも文学誌が存続しているのは『伝統』や『意地』みたいな、非常にあやふやなものが根拠ではないでしょうか。今後、採算がとれるようになるとは誰も思っていないはずです。大量に赤字を垂れ流すだけの部署ですけど、まあ、趣味と考えればよろしいのではないですか。歴史って大事ですし。

そのうちビジネス上の問題で、文学雑誌を出せなくなる出版社が出てくるでしょう。そのときに、どうするんでしょうね。どうしようもないのかもしれませんけど。僕個人としては、昔のように同人誌を出していた時代に戻るのかな、と思います。一部の力ある人たちが集まって、こつこつ自分たちで雑誌をつくるみたいな。それが文学フリマの存在意義でもあるわけですけど。

しかし、デジタル化のお陰で昔よりもローコスト、ロー労力で本をつくれる時代だと思うんですけど、効率が劇的に改善した、というわけでもなさそうですよね。むしろ昔よりも忙しそうな気がします。どういうことなんでしょう。このあたり、詳しい人にきいてみたいものですが……。

タイトルに戻りますけど、純文学っていつまでつづくんでしょう。いや、存在自体は、いつまでもつづくと思います。電子書籍とか、個人販売とか、そういう風に変化して、ですけど。いまの文芸誌があって、芥川賞があって、みたいな世界は、いつまでつづくんでしょう。まだしばらくはもつのかな。専門家でもなんでもないのでわかりません。本格的な不況が来て、漫画が完全にだめになったらきついでしょうね。きっと。

僕個人としては、特につづいてほしいとも、滅びてほしいとも思っていません。どうでも良いです。

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